1.日本の翻訳業界の歩み
日本には大小合わせて約1800社の翻訳会社が存在するといわれています。
(引用:㈱ジェスコーポレーションのホームページ、2017年調査)
しかしそのほとんどは社員数名の、または個人事業主であるにもかかわらず法人格を有している個人翻訳会社や何らかの組織です。
正式な統計はありませんが、社員5名程度以上の会社は数百社程度でしょう。
これら数百社の翻訳会社のうち、社員100名以上を擁する会社は数社のみで、多くは社員5名程度から数10名程度のいわゆる小企業(業界内では中堅翻訳会社)です。
これらの中堅翻訳会社の多くはもともとやる気がある優秀な翻訳者が会社を設立し、仲間を集め、もしくは社員を雇用してある程度の規模になったものです。会社設立当初は自分たちで営業活動を行い、翻訳し、品質管理を行い、完成品を顧客に納品していました。
これは日本で翻訳会社がポツポツ誕生した1960年代から1990年くらいまでのことです。
業務のほとんどを社内の手作業で行っていた時代です。顧客の多くは日本国内の輸出型企業でした。主に電機と自動車産業の会社です。
1990年に日本の経済バブルがはじけ、以後10年以上にわたり日本の輸出型企業の多くが不況の影響を受け、経営が悪化しました。
翻訳業界もこの影響を受け、業務量の低下と単価引き下げの圧力が強まり、多くの翻訳会社の経営も難しくなってきました。
2.翻訳メモリツールの登場
翻訳会社はこの傾向に対応するため、当時世の中に出てきたTRADOS(トラドス)をはじめとする、いわゆる翻訳メモリツールを導入しました。
このツールを使うと過去に翻訳した文章のデータがあればそのまま利用し、短時間で翻訳作業ができるため、低コスト・短納期が可能となるという触れ込みでした。
TRADOSをはじめとする翻訳メモリツールでは、例えば日本語から英語への翻訳であればあらかじめ過去に翻訳した日本語原稿文章と英語文章をペアで持っておき、翻訳したい日本語原稿を文章単位で検索します。そして全く同じ過去の翻訳文が見つかったら100%一致として対応する英語文章を取り込みます。
100%一致していなくても、その一致率に応じて翻訳文が表示されるので、不一致の箇所のみ修正し、新しい翻訳英文として利用します。
結果、一から日本語を読んで英語に翻訳するより素早く簡単に英語への翻訳ができるというものです。つまりパソコンの力を借りて過去に翻訳した文章を上手く取り込み、素早く仕事を仕上げるためのシステムです。
このツール(システム)のおかげで2000年代になると多くの翻訳作業は翻訳メモリツールを使用し、このツールを使いこなせない翻訳者には仕事が回ってこない、という状況が一部で発生しました。
反対にこのツールを上手く使いこなせる人は短時間で大量の仕事を消化することができ、単価は下がってもそれなりの売り上げを稼ぐことができました。
3.翻訳メモリツールの強み
このツールの取り扱いに慣れ、スムーズに使えるようになると翻訳スピードが上がります。
日本語から英語への翻訳の場合、これから翻訳しようとする日本語原稿文章を指定すると直ちに対応する過去の翻訳英文が画面上に表示されるので、翻訳者はこれを確認して選択するだけで翻訳英文が出来上がります。
過去データが豊富にあれば一致率が高くなり、翻訳者は次々に画面上に現れる「翻訳文候補」を、チャンチャンチャン…(マウスの連続クリック)といった感じで選択し、翻訳作業を進めることができます。
使い始めるとこれは便利です。これまで頭を悩ませ、原稿の意味を理解し、対応する翻訳文を考え、それをカチカチとタイプ入力するのに比べて楽に早く作業を進めることができます。翻訳者にとってまるで「魔法のツール」だとも言えます。
一定の翻訳量に対して短い作業時間で作業が完成するわけですから翻訳単価(通常は原稿1文字または1単語あたり)が低くなっても十分な稼ぎになります。
2000年代にはTRADOSを代表するこの種の翻訳メモリツールが大流行でした。
今でも広く使われています。
4.翻訳メモリツールの弱点
大量の翻訳を短時間でこなせるこのツールは瞬く間に日本中に普及し、翻訳メモリツールを使えない人は翻訳者ではない、という風潮まで出てきました。
しかし暫くすると(2000年代半ば)、「翻訳メモリを使った翻訳の品質はどうもあやしい・・・」という声が上がるようになりました。
「翻訳文が読みづらい。」
「間違いではないけど、変な表現になっている。」
「文脈からして翻訳文の内容が間違っているのでは?」
などなど、商品としての翻訳品質に疑問を呈する人が増えてきました。
理由は明らかです。
ツール上で翻訳者がチャンチャンチャン…と作業を行っている時、時々うっかり間違った選択をしてしまうのです。また原稿の意味を深く考えず画面上の字面だけで判断して安易な選択をしてしまうのです。利用する過去の翻訳データに誤りがあることもあります。
翻訳者はこのようなミスが起きないよう、細心の注意を払い、よく考えて翻訳文の選択ならびに修正をしなくてならないのですが、チャンチャンチャン…とやっている間に注意力散漫になってしまうのです。原稿が表現している内容を正しくイメージせず、画面上の文字列を視覚的に判断するだけで翻訳してしまうのです。
5.高度な翻訳に必要なこと
イスラエルの歴史学者であるアタリ氏が、「サピエンス全史」というベストセラー本を書いています。
アタリ氏はこの中で、「数ある古代の人類の中で我々ホモサピエンスだけが生き残った最大の理由はフィクションを信じる力」だと言っています。これは言語からイメージを膨らませ、それを共有する力だということができます。
翻訳メモリを使って作業を進めるうちに、翻訳者は原稿の中のイメージを膨らませることなく、字面だけで判断して大切な内容を疎かしてしまう傾向があります。
プロの翻訳者が複雑な内容の文章を翻訳する際、まず原稿を読み込んで内容を理解し、頭の中で何らかのイメージを作り上げ、それをほかの言語で正確に表現します。決して原稿の字面だけを他の言語に置き換えているわけではありません。
翻訳者はさらに、文章単位のみではなく、ドキュメント全体の流れ(文脈)を理解し、読み手にとって読みやすく、理解しやすく、誤解を生まない正確な文章を作っています。
これらの作業は今のところ翻訳メモリツールや、最近はやりのAI翻訳システムではできないのです。
6.翻訳メモリツールの正しい使い方(提案)
以上述べたように翻訳メモリツールには便利な面と同時に注意を要する点が多々あります。また。このツールを使えば効率的に仕事が進められる種類のドキュメントがある一方、かえって手間がかかり、品質が落ちるといった結果になってしまうドキュメントもあります。
一般的に、マニュアル類(主として取扱説明書・修理要領書など)の行動指示型文章は繰り返し文章が多く、かつ専門用語や固有名詞など用語の統一が必要なものが多いので、翻訳メモリツールを使うと効果的です。
反対に技術論文や、あるシステムの概要説明書のように、論理的または概念的な内容を説明する文章には適さないといわれています。過去の文章メモリが自動的に出てくると翻訳者の頭の中のイメージが邪魔され、適切で良い翻訳文ができづらくなってしまいます。
いずれにせよ、よい翻訳の仕事をするには常に自分の頭の中をフル回転させておくことが不可欠です。
当社では上記の「高度な翻訳に必要なこと」を守りながら必要に応じて翻訳メモリツールを活用し、生産性向上のための取組みを行っています。
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