「製造物責任法」が引き起こした翻訳業界の大きな変化
翻訳会社が顧客から受注した翻訳の仕事は当初(1990年代くらいまで)、自社内で翻訳作業をするのが基本でした。しかし、最近(2000年代以降)はその多くを社外のフリーランス翻訳者に依頼するのが主流になっています。
この変化には様々な理由が考えられますが、日本で1995年に制定された「製造物責任法」(Product Liability Law, 略称PL法)が一つの契機だといえます。
1.1995年制定の「製造物責任法」
これは「製造物に欠陥があったことを要件とすることにより、製造者は損害賠償責任を負う。」というものです。(Wikipedia)
これは今となっては当たり前のことのようですが、この法律の制定前は、もしユーザーが欠陥商品により被害を被った場合、製造者に損害賠償を請求するには「加害者(製造者)に故意・過失があったことにつき被害者側が証明責任を負う」必要がありました。
この法律のおかげで被害者側過失を証明しなくても賠償責任を追及できるようになりました。つまり欠陥商品によりに被害を被った場合、その製品の製造者に対し損害賠償の請求がし易くなりました。
2.「製造物責任法」に対するメーカーの対応
この法律に対応するため、日本の製造者(メーカー)は真摯な対応策をとりました。まず、ユーザーに被害を及ぼさないよう可能な限りの安全設計をすることにしました。
しかし、いかにメーカーが安全であると信じる製品を作っても、もしユーザーがメーカーの意図した正しい使い方ではない、危ない使い方をした場合には事故が発生する可能性があります。
このためメーカーはユーザーが危ない使い方をしないよう、製品取扱説明書の充実を図りました。説明書の中には正しい取り扱い方を詳細かつ親切に書き込みました。加えて「このような使い方をしないでください。もし間違った使い方をすると事故が発生するかもしれませんよ。」という多くの警告文、注意文を入れました。
現在私たちが購入する多くの工業製品には取扱説明書がついてきます。この説明書を開いてみると、最初に多くのスペースを割いて警告文、注意文が載っています。
読む方としてはうんざりするのですが、これはもし事故が発生した場合、ユーザーが説明書に書いてある正しい使い方をしなかったために発生したもので、メーカーの責任ではありません。といった、将来発生するかもしれないユーザーからの損害賠償訴訟への対抗策でもあります。
3.「製造物責任法」に対する翻訳業界の対応
日本語の取扱説明書はメーカー内、または専門のマニュアル作成会社が作りますが、海外向けの説明書は外国語(主として英語)に翻訳しなくてはなりません。当時日本の多くのメーカーの中にはこのためのスタッフを置いている会社もありましたが、全体的には十分な仕事量をこなせない程度の陣容でした。
ここで専門の翻訳会社の登場です。
米国ではこの製造物責任法の考え方が1960年代から広く認知されており、多くの団体およびライター達により「正しくわかりやすい文章(英語)の書き方」の研究が進んでおり、種々のガイドブックも出版されていました。いわゆる「(英文)テクニカルライティングの教科書」といった存在です。
日本の多くの翻訳会社は米国のこれらのガイドブックを勉強・研究し、世界中のどこに出しても立派に通用する英文の書き方を習得しました。メーカーのマニュアル作成部門の翻訳担当者さんたちも同様です。この過程で、現在も工業英検を実施している「日本工業英語協会」の貢献度が大きかったと思います。
これにより日本で作成する海外向け英文ドキュメントのレベルがワンランクアップしました。
この「英文テクニカルライティング」の技術とノウハウは当時、翻訳会社にとって大きな営業上の武器になり、翻訳業界は全体的に繁盛したものです。1990年から1995年くらいまでの話です。
4.「製造物責任法」制定後の翻訳業界
1995年に製造物責任法が制定されて以降、心配されていたユーザーによる損害賠償訴訟はあまり発生しませんでした。我々翻訳会社を含めて製造者側の努力の結果なのか、それとも、もともと日本人には「損害賠償訴訟」という概念が希薄だったからか、理由ははっきりしません。一安心です。
そうこうするうち、バブル崩壊の影響が次第に大きくなり、日本のメーカーの経営が苦しくなりました。コスト削減のため、翻訳業界にも値下げの圧力が高まり、仕事量も減ってきました。
このタイミングで世の中に出てきて普及が始まったのはTRADOSを代表する翻訳メモリツールです。翻訳メモリを使えばコスト削減ができるという理由で多くのメーカーならびに翻訳会社が導入し、あっという間に広がりました。
同時にこのシステムを使って社内で作業するより社外のフリーランス翻訳者にやってもらったほうが更にコスト削減になる、ということで翻訳外注傾向が高まったのです。
全体的に少なくなり、かつ受注量の変動が大きくなった仕事量をこなすには社内に翻訳者を抱えておくより、必要な時にだけ依頼できる社外翻訳者の方が経営的に見て得策だったといえます。
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